みぃ。



先入観や固定観念というものを妨げる事態が起きると、人はわずかばかり戸惑う。
そう、きっと。必ず。どんな人間でも。
北斗心軒の戸に掲げられた『本日定休日』の札が、音をたてて心地よい秋風に揺れる、そんな日に店を訪れた桂も、いつもとは違う聞き慣れぬ鳴き声を微かに聞いた様な気がして、わずかに目を見開いた。
「・・・・・・・?」
定休日で、いつもならばほぼ24時間フル稼働の火が落とされ、ひっそりとした店内を見回す。定休日の店内には人の影らしきものは無い。いつもならば笑顔で出迎えてくれる店主の姿も無い。
けれど“何か”のうごめく気配がする。自然、桂は身構え、全神経を研ぎ澄ました。
己を捕縛しようとする輩共が“ここ”に気付いて待ち構えていたのだろうか、それとも聞き違いか、もし真撰組がこの店に潜んでいるのならば、この店の店主はどうしたのだろう―――無事なのだろうか。様々な考えが浮かんでは消え、負の方向に転がっていきそうな想いが湧き上がってくるのを無理やり打ち消しながら桂は店の奥へと進んでいく。ゆっくりと、ゆっくりと。
気を張り詰め、いつ不逞の輩が襲ってきても良いように腰に携えている刀に手をかけながら、慣れた店内を歩く。
地の利はこちらにある、逃げるも迎え撃つも、こちらが有利だ。
チリリ。涼やかな金気の音が静寂の落ちていた店内に響く。やはり“何か”がいる、桂の柳眉が更にひそめられた。
「・・・・誰だ?」
険を含む声にも答えは無い。それはそうだろう、桂の首を狙って潜んでいるのなら、ここで返事をするのは馬鹿以外の何者でもない。
刀の柄を握る手に力を込めて、更に歩を進める。音は店の一番奥、店で最も陽の当たらない―――けれど実は角度上、美人で知られる店主・幾松の一挙手一投足が店内で最も眺められ、女主人目当てでくる男性客に密かに人気のあるテーブル席――の陰から確かに聞こえた。
一歩、一歩と近づく程に桂の眼の線は険しくなり、冷たさが宿り、早く、大きくなる鼓動とは逆に頭は冴えていく。
カタカタカタ・・・外で大きく一陣の風が吹いたのか、定休を知らせる札が大きく音をたてたのを合図に、桂は先手必勝とばかりにテーブルの影へと勢い良く回り込んだ、が。

「いない・・・?」
確かに気配を感じたはずの場所には人影どころか、虫一匹もいなかった。辺りを再度見渡しても、やはり人影は無い。
「気の所為か?」
それとも忍びの者か、それならこんな芸当は朝飯前だろうが・・・・だが、気付かれてまで身を隠す必要もあるまい。
不可解な出来事に桂は首を傾げたが、やおら「そうだ、幾松殿は・・・」と呟くや、焦れたように店主の私室へと繋がる扉へ歩を進めようとした。進めようとした、のに。

062:オレンジ色の猫
@:幼子の瞳

みぃ。みぃ。

小さな、小さな太陽が天から足元に転げ落ちてきていたのかと思った。
空耳でない、微かな鳴き声。きっちりと足袋を履いた足にかかる軽い重さ。
桂の足にその身をすり寄せていたのは見慣れぬ仔猫であった。
日の光を集めたような橙黄色の毛並みに、深緑の瞳を持った可愛らしい仔猫。
ただ、宇宙渡来の猫なのだろう。地球のそれと異なり、細い尾が3本、愛らしくゆらゆらと揺れている。
「・・・・お前か?」
先程までの気配は。これか。
みぃお。
自分の問いに答えるように鳴いた仔猫に、桂は微かに頬を緩めた。なよやかで、温かなそれをゆっくりと抱き上げる。
「・・・壊れそうだな。」
抗うでもなく、すっぽりと腕の中に収まった橙色の仔猫の額を指の甲で一撫でして呟いた。きっと産まれて日も浅いだろう、その身は熱いといってもいいほどに温かい。慣れぬ外界に適応し、懸命に生きようとしているからこそ、ふわふわとした毛の一本一本さえも脈打つかのように熱を持つ。
だが、それは反面幼いゆえの脆弱さ、か弱さの象徴でもある。ほんの、本当にほんの少しの事でたやすく壊れてしまいそうだ。
どくどく、どくどくと小さな体は規則正しく、その命を主張している。それを手に受け、仔猫を守るかのように、桂は抱く手にそっと力を込めた。小さな赤子をあやすように額を一撫でする。
み。み。
心地よかったのか、仔猫は柔らかな身をよじらせて鳴いて、更にみぃ、と一鳴き。もっと撫でて、とでも言う様にちょこなんと桂の手に前肢をのせて、仔猫は桂を見上げた。
しかもご丁寧に一寸ばかり愛らしく小首を傾げて。これは、もう、反則技に近い。
この愛くるしさに逆らえる人間など、この世にそうはいまい。もし、もしもそんな人間がいるというのなら見てみたい。
この男にしては珍しく頬を緩めたような微笑を浮かべて、請われるままに頭を撫でる。みぃ、と請われては撫で。撫でれば、みぃ、と請う。傍から見れば、微笑ましいその繰り返し。
そうして、気付けばいつのまにやら手近な椅子に座りこみ、本格的に桂は仔猫を構い始めていた。
「ん?なんだ?」
み。み。みぃ。
「そうか・・・・」
みゃあお。
まるで会話でもしているような一人と一匹のやり取り。それが秋日和の陽が窓辺から柱のごとくキラキラと差し込む店内に小さく響く。
戸を一枚隔てた外では忙しく人々が往来しているはずなのに、それも遠い。まるで俗世間から切り離されたような錯覚を覚える。
散々遊んでもらった末、またしっかりと桂の腕の中に納まった仔猫は、まだまだ遊び足りない、とばかりに今度は桂の肩にサラリとかかった長い髪にその前肢をエイヤっと元気良く伸ばした。「コラ・・・やめんか。」
それは駄目だ。と身を引いて、やんちゃな攻撃をやんわりとかわすと、みぃ、と不思議そうに仔猫は鳴いた。陣取った腕の中から、また桂を見上げてくる。“何で駄目なの?”とでも言うように不思議そうに。小首を傾げる事も無く。そして少しばかり不服そうにして。まっすぐに。
瞬間。どこか、桂の体の奥の、奥のほうで、何かがさざめいた。ざわざわと心の遠い奥底で鈍く、重く光るものが、その人形のように整った顔に少しばかり影が落とす。
―――幼いものがもつものは猫も人間も同じなのだろうか。
見上げて来る子猫の目は頑是ない子供のそれと同じで。陽光に輝くびいどろの玉のように透明で繊細で、汚れがない。
桂は童のように澄んだ目をしているとよく人に言われるが、(多分思うに世辞も入っているのだろうとは思うけれど)その度に自分はそんな事は無いと思う。
血の匂い、色を知ってしまっている自分は、そんな事は無いと。
そこまで考えて、見上げて来る双眸にいたたまれなくなった桂は思わず目をそらした。
子猫はそれが不服だったのか“なぁお”と不機嫌そうに一声鳴いて、腕の中でおとなしくなってしまった。
どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。そう感じて桂は嘆息した。



Aへ続く