蝉時雨が聞こえる。そこいら中から身体に纏わり付くように聞こえてくるそれは、唯でさえ茹だりそうな盛夏の暑さに拍車をかける。せめて遣らず雨でも降ってくれれば少しは涼しくなるものを、と縋る様に見上げても生い茂る木々の合間を縫って広がる空はどこまでも青い。これでは到底雨等望めまい。

まあ、暑いことには暑いが、じりじりと照り付ける炎天下でなく、陽を遮る事の出来る山中である事がせめてもの救いかと坂本は頬を伝う汗を拭いながら嘆息した。

一歩一歩、体感温度の上昇を覚悟しつつ、生え伸びた草を掻き分けながら山道を歩く。まだ、目当てのものは見付からない。この辺かと当たりをつけて来てはみたものの、頼れるのは己の想い出と記憶力というひどく曖昧なもので、坂本自身、実際はそれが何処にあるのかも判らない。ただ、高草を掻き分けて踏みしめる地面に、時々見受けられる人工物や僅かに獣道を舗装した跡が目的地はそう遠くない事を示していた。知らず、歩き続ける足に力が入る。

みんみんという喧しい鳴き声は時が経つ程に次第に強く、大きくなっていく。それに共鳴するかのようにざわめく木々の葉がきらきら煌めいている。それに目を奪われながらも坂本は背負った荷物を少し持ち直して歩を進めていった。

と、ふいにあんなに煩かった蝉の声が止んだ。辺りに訪れた水を打ったような静寂に坂本は何事かと顔を上げる。

ざざ、ざざ。と音をさせて強い風が吹き抜ける。木々がまばらに途切れて、広く開けた土地に出ていた。

額に浮かぶ玉のような汗を拭いながら見渡せば、また風が吹いて草の波が打ち寄せる。

ざざ、と涼しげに棚引く光景に口元に浮かべる笑みも濃くなるが、その揺れる高草の間に、ちらりと何かが見えた気がして目を見張った。確か、五丈と少し向こう側の、青々とした草の繁茂するその間、大きく腕を広げて影を作るははその木の下に。

「あった・・・。」

口からほろりと漏れた言葉に含まれるのは歓喜と安堵、そして懐古の情だった。

草を分ける事ももどかしく、坂本はがさがさとそれに近寄って行く。息を切らして立ち止まったのは一抱えあるか否かという大きさの石の前であった。

苔むして所々深緑に染まるそれに、坂本は恐る恐る手を伸ばして触れ、愛しげに撫でる。

「ようよう会えたのぉ、ずっと、ずぅっと会いたかったがだ」

おんしに。そう呟く言葉は尻窄み、代わりに込み上げてくる嗚咽を押し止めてにこりと笑う。図らずもポロリと一筋流れた涙は頬を伝う汗に混じって地に落ちたが坂本は気にしなかった。

 

****

 

「わしを誰じゃと思うろう。あったことも無いんやき当然じゃ。やけど、わしはおんしの事をよお知っちゅうよ。」

あいつらが良くおんしの事を話しよったからの。そう言いながら坂本は無造作に石の周りの草を抜き払い、背に負っていた鞄から一升瓶を数本取り出して、括りを解いた手桶に中身を注ぐ。ちゃぷちゃぷと注がれる透明な液体は涼しげに太陽光を反射していた。

「水じゃ。酒でも良かったんじゃが、今日の様に暑い日はこれに限るき。」

宇宙でも三大名水と呼ばれるものを汲んできた、口に合えばいいが。と笑いながら柄杓を持ち上げてゆっくりと石にかける。苔むした石は流れ落ちる水をその身に受けて、その色をじんわりと変えていく。

濡れていく深い緑の色は和やかで何故か坂本を安心させた。まるで遠い昔、話に聞いた人のようだと坂本は笑みを深くしてぽつり、ぽつりと言葉を紡ぎ始める。選んだ言葉を押し出すように、水と共に岩へとかけていく。

「わしはの・・・あいつらの古い友達じゃ。」

「名は坂本辰馬、貿易商をしちゅう。」

何故だか、常より歯切れが悪い。柄にも無く気ばかりが急いて、頭の中がぐるぐる回る。その度に口ごもってしまう。まるで想い人を前にした初恋の小学生の様で気恥ずかしい。そう思うけれど、口を噤んでしまうのは惜しい気がするし、何の為に此処を捜し求めたのか分からない。だから坂本は頭を掻き掻き口を開き続ける。

ははその木が揺れる度に漏れる陽光に、水気を含んだ苔に浮かぶ露玉がちかちかと光り美しかった。

「わしはおんしに話をしにきたんじゃ、だからちっくとわしの話を聞いとおせ。」

洒水を繰り返せば手桶の中の水は減る。乾ききっていた石が足下の土までしっとりと濡れ、手桶になみなみと入っていた水が柄杓でも掬えなくなって坂本は柄杓を手桶に放り入れた。からん、と音がする。あのな。坂本は童子のする様に屈み込んで、童子に語り掛ける様に優しく、もう一度、あのな。と微笑った。

「わしは、仕事柄宇宙を飛びまわっちゅうんじゃ」

空を見る。

夏特有の青さを持って眼前に広がっている空の向こう。そこには無限の空間に散らばる星々が存在する。坂本はその星の海を渡り、文明ある星の住人と物や情報のやり取りをすることを商いとしている。

「宇宙は広いき。わしゃあ、こん目でなんぼの星を見てきたかしれん。けどな。」

去来する想いに思わず坂本は目を伏せる。

宇宙をまたにかけて飛び回り、気が遠くなるほど多くの星を見て、多くの星に降り立った。けれど、どんなに飛び回ってもこの宇宙の星の数に比べれば雀の涙程度のものだと、瞬く星空を見る度に思い知る。宇宙の広さを知る。そんな時には。いつも。

「ほがな時には必ず、想い出したんじゃ。・・・この地球を。」

そして探した。この広大な宇宙の何処かに存在する我等が愛すべき故郷を。

そしてまた思い知る。一つの考えに辿り着く。

みんみんと蝉が鳴いている。暑さを助長する鳴き声を発するこの昆虫も、何処か爽やかでさえある、茹だるようなこの暑さも、この星特有のものだ。これまで坂本は多くの星へ行った。夢のような星にも摩訶不思議で面白い星にも行ったし、心から素晴らしいと思える星にも行った。多くの人と出会い親交を深めることもした。それでも、どうしようもなく想うのはこの星の、この暑さだった。

「わしはこの星に生まれて良かったと思う。」

あの星でも、どの星でもなく。夏は蒸し暑く、冬は凍みる程に寒い、この蒼い星に生を受けて。心から良かったと。

そうして思考はいつもある場所へと帰着する。

「この星に生まれたからこそ、あいつらにも出会えたんじゃ。」

「この広い宇宙で、出会えた事は最高の奇跡じゃとわしは思う。」

限りなく広がる宇宙で人と人が出会うという事は、なんと奇跡中の奇跡なのだろうと坂本は思う。縁が無ければ、同じ星の下に生まれても肩すらぶつからずに生きていくことになろう。そんな盲亀の浮木の如き確率で自分は旧友達と巡り会ったのだ。そして。

ポリポリと坂本は鼻の頭を掻く。

「わしはの、どうやら酒が入ればいつも奴らの話をするらしくての〜。」

もう耳タコじゃと不平を洩らしながらも秘書が教えてくれた所によると、話の内容は多々在れど、要は自分には地球に宇宙の何処を探しても見付からない最高の友達が居るのだというような事をデカイ声で吹聴するらしい。全く恥ずかしいと部下はのたまったが、坂本はそうは思わない。例え素面でも、どんな場所でも、何の臆面も無く坂本は叫ぶ事が出来る。宇宙全体に轟くほどの大声でもって語る事が出来る。

「あいつらはわしにとって、宇宙の何処を探しても見つからん最高の友達じゃ。」と。

凄まじい確立で巡り会い、そう言える、そう思える友となった事は更なる奇跡だと坂本は強く思うから。

なのに。

脳裏を掠めるものにまぶたを閉じる。いつも柔和に刷かれているはずの眉が歪む。

坂本がその件を知ったのは、事が起こり、そして収束してから数週間後のことだった。いつもの通り、星の林を思う存分駆け回って帰国した彼を待っていたのは、ただただ事実のみを事務的に記した報告書だった。白い印紙に書き付けられたその事件は、旧友の暗殺未遂に端を発する攘夷二強勢力の衝突。

淡々と無表情に綴られる文の行間から、まざまざと浮かび上がる血の臭いと惨劇。そして、ありありと読み取れる旧友たちの悲痛な表情と想いに坂本はじりじりと全身が焼きつく想いがした。

読み終えた後、湧き上がってくる憤懣とも、悲哀とも、何とも言えぬ感情に、思わず坂本は近くの壁に額を打ち付けた。幾度も。幾度も打ち付けて額が割れて血が流れたが痛みは全く感じなかった。

直ぐにでも旧友達の傍へ行きたかった。けれど、己が傍へ行ったとて何が出来るとも分からなかった。そして、今の己には彼らにかける言葉さえ持たない事も知っていた。事情が事情だけに、それが、カンパニーに危険を及ぼしかねない事、ひいては坂本自身の大義を通す事に支障を及ぼす事も分かっていた。だからこそ悩みに悩んだ。

何日も何ヶ月も悩んだ末に坂本は飛び出した。無理矢理に、横暴に社長権限を振り回す事までして休みを勝ち取って。けれど、艦を出て行く社長の背中に、残される社員は、常に口うるさい彼の右腕すらも何も言わなかった。

そして今に至る。

ぽた、ぽた、と緑の雫が岩鼻から地へ落ちるのを坂本は眉を顰めたまま見つめる。

「・・・わしは、あいつらに出会えて、本当に良かった・・・・。」

本当に、本当に。そう重ねて告げる言葉は、喉に支え、震えて細くなっていく。己の身の振り方を、彼らへの言葉を悩んで、悩んで悩みぬいて数ヶ月、結局いつも最後にはその一言に落ち着くと気付いた時に坂本の心は決まった。そして会いたいと思った。その決心を確固たるものにする為に、前へと踏み出す為に、彼の人に会うべき時は今と知った。会って、そして。伝えたい。坂本はそっと息を吸う。

覚えている。幾年経った今でも鮮明に思い出す事が出来る。追憶の中に住まう人を語る友の瞳や、それを茶化す友の顔、その友を諌めながらも相槌を打つ友の微笑みも、覚えている。其処に流れる柔らかな空気までも鮮明に。

顔を上げて坂本は岩を見つめる。言いたい事はたくさんあったはずだと思う。

あの頃から、こうして悩み、独りで墓前に座る今この瞬間までに、思った事も考えた事も、全てをぶちまけたい、伝えたいと道すがら思っていたはずなのに、対峙して頭を巡るのは唯一つの言葉。一つの感情で。その感情は、どんなに言葉を尽くしても、言葉に余る。けれど、きっとその感情を表すのには唯一つの言葉で十分なのだ。

だから言おう。今こそ。全ての気持ちを込めて。終ぞ会うことの無かった貴方に。

 

「ありがとう」

 

本当にありがとう。もう一度、いや、幾度も繰り返す。

きっと何度言ったとしても足りない。きっと、この人が居なければ彼らと出会うこと等無かっただろうから。この人が居なければ、今の彼らは居ないだろうから。この人が居なければ、この人が居たから、この人が居てくれたから。

この人が己にとって宇宙のどこを捜しても見付からない程の最高の友を育ててくれた。

だから言いたい。

ありがとう。

ありがとう。

ありがとう。

何百、何千、いや何万でも足りない、数え切れない程の感謝の想いを坂本は今は亡き人へと捧げる。いつの間にか滲んだ涙は頬へと触れ、アゴを伝い、地に落ちて沁み込んでいった。そよ風がさわさわと木々を揺らめかせて、坂本の濡れた頬を優しく撫でていく。それがどこか温かな手の様だと頭の片隅で感じながら、わしは決めた、と坂本は呟く。

「やき、見守っていて欲しいきに。」

そんで、あの馬鹿共にもう一度教えを説いてやって欲しい。どんな形でも良いから。導いて欲しいと坂本は願う。

濡れた岩の深い緑の色は少しずつ褪せて、元の色に戻りつつあるのに、その岩鼻からは未だにぽた、ぽたと雫が落ちている。

彼の人は泣いているのだろうか。と坂本は思う。泣いているように見える、泣いているのだろう。何の涙であろうか、少なくとも嬉し涙でない事は確かだと坂本は考える。

願わくはいつか、その流す涙の一粒でも喜びに満ちたものに変える事が出来るように。己もまた、比類なき友を取り戻すために、最大限の努力をしようと心に刻む。

遠くで蝉時雨が鳴いている。どうやら、いつのまにか、その声は蜩(ひぐらし)に変わったようだ。もう直ぐ日が沈む、己も帰らなければ、夜明けの為に。

じゃあ、また来るぜよ。先生。小さく呟いて坂本は微笑んだ。

 

 

 

 

この想いを、ついぞ会うことの無かった人へ届けたもう

 

ミツキさんへ捧ぐ

 

辞書

ははそ:コナラや、クヌギの総称

盲亀の浮木:涅槃経。(仏様に)巡り会う事がすごく難しいという事を分かりやすく例えたもの。海中を泳いでいた盲目の亀が海面に出てきた時に浮木に開いた孔に入るぐらい難しいという事。