序:蕾

 

宵の闇に、淡い桃味がかった白い花が浮かんでいる。朱塗りの鳥居を抱くように、その傍らに静謐を湛えてそびえる大きな姥桜。

その老木が、星の輝く天へ、名残雪の煌く地へと寛容に差し伸べるその枝々の一つ。その指先に。

つい今朝方まで降り続いていた冬の忘れ形見を掻き集めたような、そんな儚い花色がポツリと咲いている。それを見つけて、その花の下、幾松は白い息を吐きながら静かに佇んでいる。

貴方に呼ばれたのね。ふと、小さく呟いた言葉が、夜の薄闇に消えていくのを幾松はうっすらと笑みを浮かべて聞いていた。

闇に同化してしまいそうな黒色の着物の袂がふわりと翻る、その音が耳朶を打つばかりで、返る言葉はない。けれど、幾松は思っている。

この花に呼ばれたのだ、きっと。そうでなければこの姥桜の下に立つはずが無い。ネオン瞬く市中を行く当ても無く、短慮だと思いながらも女一人、ふらりと気ままに彷徨っていたのに。いつのまにかまっさらな足袋をきちりと履いた足は、何かに導かれるように長い階段を上り、鳥居を潜り抜けて。気が付けば幾松はこの老木を見上げていた。

長い冬の末に漸く、漸く花を綻ばせた姥桜を。こんな、日に。

薄桃の花は冷たい風に晒されて、今にも千切れてしまうのではないかと思う程に揺れている。

きっと、貴方は今年最初の桜なのだろうね。幾松はそう呟きながら、ほぅ、と真っ白な息を吐いた。

淡雪のような吐息が空中にじんわりととけてゆく。

桜は春を告げる花だという。きっと、雪の中にあって唯一花開いたこの花は、雪に濡れて美しく煌いてはいるけれど、どれ一つとして冬のままに色付いてはいない他の蕾に、春が来ている事を告げているのだろう。そしてこの淡い花は幾松にも。きっと、その為に呼ばれたのだから。

春が訪れて来ている。目には見えなくとも、肌では感じられなくとも。其処此処に、確かに。

冬が過ぎれば春が来る事は世の理だと昔、誰かが言っていたのを覚えている。あれは誰だっただろう、親類だったか、常連客だったか、それとも、下卑た様に哂う義弟だったか。

今ではもう、記憶は朧で思い出せないけれど(話の前後を考えれば思い出す必要も無いのだけれど)、この言葉は確かに正しかったのだと今更ながらに思う。どんなに目を瞑っても、目を逸らしても季節は巡る。冬が過ぎれば必ず春が訪れる。そんな簡単な事を幾松はもう久しく忘れていた。

春はもうすぐ訪れる。長い冬は去り、漸く雪に濡れた蕾は花開き始める。必ずやそれは美しい花を咲かせる事だろう。そうしたら、もう一度此処へ来たい。今度は一人ではなく、二人で。

けれど。

けれど、もう少し、ほんの少しの間だけ花開くのは待って欲しい。せめて48日の間だけ。私と共にその身を慎んで欲しい。そう呟きながら佇む幾松の頬が蕾と同じに煌いている。ぽつりと宵闇に浮かぶ白い花は、風に揺れながら静かに咲いている。

 

 

≪続≫